幼い頃から水がさらに、他人に期待をしていないのに、社会が何かを恵んでくれると期待している。
こういう矛盾したところが私の人生をハードモードにしている感じがする。
私自身はあまり他人に興味がない。カバンについたキーホルダーを見て「あの人、〇〇が好きなんだ」とかは思うくらいの興味はある。ただそれくらい。
減点の世界、生きづれ〜
わたしは世界を減点法の世界だと思っている。他人がなにをしても「他人だしな」で諦められるしそもそも関係ないと思っている。
しかし他者は「なんでこんなことしてるんだ、こいつはダメだ」とすぐ見限ると思っている。
わたし自身、他者を見てすぐに「ダメだなこいつやべーやつじゃん」と思ってしまうのだ。他人に興味がないので期待をしておらず、すぐ見限る。キリスト教でいうところの「愛がない」ような人間なのだと思う。
また、期待していないどころか、「隣のこいつはどんな嫌なことをしてくるののだろう」と常に怯えている。(電車やカフェとか)
里帰りした姉と姉の夫と過ごす時間が増えて、世の中の人はそんなことを思っていなくて、愛とか思いやりが標準装備されているのだと最近知った。みんな案外人のこと気にしてないし、その割に他の人にみんな優しくしている、ということに、姉の里帰りで気付いた。
他人のために生きられない
他人のために生きられない、というテーマも、他人への興味のなさから来るのだろうか。
仕事をするモチベーションとして「誰かに喜んでもらいたい」「誰かの役に立っているのが嬉しい」というようなものをよく目にする。わたしは全くそれらの理由が理解できなかった。
前述したように他人は、「ヤバいかもしれない奴」で「わたしを採点してくる奴」なわけだ。
そんな恐ろしい他人に対して、どうやって価値を提供出来るのか。
前述した通り、姉夫婦のおかげで優しい人類の存在に気付いたが、いまだに世界は戦場だと思っている。
書いていてわかったのは、普通に人間が嫌いなのかもしれない。ペースを乱されることがとても嫌いなのも、そういうことか。
noteで旅行している方のエッセイを読むと、旅先で人に話しかけて、助けて助けられされていてとても尊敬する。人に興味があって人が好きなんだろうなぁ。自分1人で生きていても人生の広がりがあまりなく、人と関わって面白いことが増えていく…という理論もあるし、そのエッセイを見ているとそれは正しいなぁと深く思うし、憧れる部分もある。
その方も社会に馴染めず旅に出ているみたいだけど、大丈夫だよ!その方は大丈夫、人が好きならなんだってできるよ、と思った。
わたしも人が好きになれる日が来るといいんだけど。

