noteでは休職やうつ病とニートの話は書きやすいし伸びやすい。悲痛な状況が単語だけで伝わるからだ。でも、なんかそれってどうなの、という気持ちになってきた。
ただ、こういうふうに思えるようになってきたのは、うつ病が少しずつましになってきて、ニートがどうとか休職で退職でしんどーって言うのがどうでも良くなってきたからかもしれない。
救いがnoteにあると思っていた。
noteにたくさん感情を吐き出したところで救いはない。こう書くとどこか、救いを求めていたように思うところもある。
しかし現実は、日常が大幅に変わることなどない。スキ!をもらえることでの喜びももちろんある。
ただ、悲痛な日常を晒した日記でリアクションを得ても、人生総じてマイナスじゃないか?と思うようになってきた。
だが、自分の感情や世界観を形にして得ることができたスキの方は、全身を駆け巡るような快感があり、もう絶頂してしまいそうなほどの喜びがある。
どちらかというとそういうスキ!を集めていきたいと思う。
たとえるなら、鬱とか休職とかニートとか、そういったものを使ったコンテンツは、インスタントラーメンのように、最低限の意味は持っていて、簡単でわかりやすくて共感しやすいが、、、空虚な感情しか生まないように感じてしまう。
インスタントなコンテンツではわたしのつらさは伝わらないし、他のあなたのつらさもわたしにはわからない。うつを便利な言葉みたいにしてしまうのが、つらくなってきた。
いずれつらかったよ〜と、何か形に出来ればいいなとは思う。
まとめると、なにか、別の形で自己表現するほうが健全だと思った、という話だ。
インスタントな快感を貰うために、便利な言葉としてうつ病やニートのことを使うのは勿体無いと感じ始めた。
星野源が言っていた。人生に自信をつける方法は「ダセェことをしない」ということだけらしい。ダセェことをすると魂が汚れてしまう。ダセェことをやめると、きれいな魂に惹かれていい人が集まってくる。(要約)とのこと。
いまのわたしは、心の体力が少しずつ戻ってきて、ダセェこと(いいね欲しがり)は辞めたいと思えるようになってきたのかもしれない。
ということで、あまり魂によくない気がしたので、自分の現状を憂うのは本当に辛いときくらいだけにしようと思う。
わたしのうつ病が、他のnoteのうつ病文学の方よりも軽症だっただけかもしれない。うつもコンテンツにしないとやってられないくらいの事もあるだろう。今のわたしは、こんなふうに考えている。
うつ病という大きな雨傘があったことで、ひどい雨に降られないこともあったし、逆に強い風に煽られた事もあった。しかし、雨傘に頼りすぎてしまう生き方だけはどうしても避けたいと思えるようになってきた。
うつ病であったことは確かにそうで、それを経験したのが今のわたしだ。でも、うつ病だったことを盾に諦めてなにもしないのは、なんだか違うと思えてきたのだ。
「うつ病だったけど、こう生きてきた」というものを、手に入れられればいいなと思っている。
嫌っていたSEO記事を書いているnoteの人になりそうなので、憂いているつらい現状の再生産を繰り返すような使い方・ダセェかもとなるようなことはやめて、noteを健全に脳内を書き出す場所にしていきたい(宣言)。

